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◆対馬丸〜さようなら沖縄 解説◆
●対馬丸
 
昭和19年8月22日。日本軍の作戦上から政府はその求めにこたえて、沖縄の戦力にならない子ども、老人、婦人など約10万人を本土に疎開させることを決定。この日は学童疎開船として、対馬丸他が決まりました。しかし沖縄の親たちを安心させる説得力は“軍艦で送る”のひと言だったのですが・・・・・。それはイギリスからぶんどった貨物船“対馬丸”だったのです。総トン数6754トン。長さ135.64メートル。それも、作られて20年以上もたった船なので、速力は10ノット、つまり1時間におよそ18キロしか走れないというものでした。沖縄の親たちの不安は、まさに的中したのです。鹿児島の南海上、悪石島の近くで、ついに対馬丸は、敵の潜水艦の攻撃をうけたのです。しかも3発の魚雷を受けて、天にもとどろくような火災を発生して、なんと、11分間という早さで沈没してしまったのです。
 船に乗っていた者1661人。その中で学童、つまり小学生813人。生き残った子どもはわずかに59人でした。しかしこの悲劇は、この後に続く『ひめゆり部隊の最後』『渡嘉敷島住民の集団自決』など沖縄県民が体験させられた数々の悲しみの始まりだったのです。それでも現実には昭和19年7月から20年3月までに約7万人の学童、一般人が疎開したといいます。戦争の悲惨さは、武器を持つ兵隊の死傷よりも、自分の命の主張もできない子どもたちまで、巻き込み死なせてしまうことです。


●疎開・・・・・とは?
 「時局の現段階に対し1億国民の総力を敵反撃に備うるには国の防衛態勢を確立するに急なとき・・・・・」と。難しい言葉よりも、戦争の被害を少なくするために、せめて学童や老人、女性たちを安全な場所へ集団で移動させる、人口移住なのです。だからいつかは戻ってくるという希望も持てたのですが・・・。なんといってもこの移動だけは危険率と成功率が、どのように判断しても50パーセントづつ。とにかく、その時の大人たちに冷静な判断を求めても無理だったのかもしれません。

●国民学校とは
 小学校のことを戦争の時だけ特にそう呼んだのですが・・・・・。当時の新聞などに“1億国民総力をあげてこの戦いに”とか“欲しがりません勝てるまでは”と、一般市民の戦闘意欲をかきたてるための一貫した政策のひとつだったのかもしれません。

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